2012年4月12日木曜日

小説・輝・バックナンバー・第四部 38話・VS ケビン(中編:葛藤)


「マジマ、 棄権しろ」
見た事もない巨漢が、 トオルの前に立ちはだかった。
身長はゆうに二メートルを越えており、 肩幅も常人の倍なら、 厚みも倍。 胴回りたるや服の上からでも層の割れ目が見て取れる、 見事な三段腹の持ち主だ。
一見してアカデミーの中でもおよそ事務職以外の仕事が務まるとは思えない体型をしているが、 教務スタッフ専用のユニフォームを着用し、 試合が行われている最中にコートに入れる人物は限られている。
恐らく彼はジェイクの代わりに新しく雇われた、 十位以内のクラスを担当する専任トレーナーに違いない。 その証拠に丸太のような二の腕と三段腹の間には、 他のトレーナーと同様、 試合の進行状況を記録したファイルとスコア表が圧迫死寸前の状態で挟まれていた。
新任トレーナーと思われる大男は、 コートでうずくまるトオルを前にして、 実に落ち着き払った態度で言い寄った。
「右足の腓腹筋痙攣(ひふくきんけいれん)による棄権敗退。 それで良いな?」
鈍重な見た目に反して彼の話し方には躊躇がなく、 緊急事態にこなれた観もある。
新任と言っても、 その言動には他所で経験を積んできたベテランならではの貫禄がうかがえた。
トオルは、 多くの修羅場を潜り抜けてきた彼ならば交渉次第で自分の力になってくれるかもしれないと、 万に一つの望みをかけて仁王立ちする巨体を仰ぎ見た。
――コイツがここでギブ・アップしてくれれば、 全てが丸く収まる。 俺達もこれ以上の厄介ごとに巻き込まれなくて済むだろう。
どこが顎だか見分けのつかない肉厚の丸顔には、 望外の喜びを手にした者の心の呟きがハッキリと浮かんでいた。

アカデミーのランキング戦では、 一試合に付き三分間だけ治療の為のメディカル・タイムアウトが認められている。
しかし、 あくまでも校内行事の一環との趣旨から、 負傷した選手にプライベートで専属契約を結んでいるドクターやトレーナーがいたとしても、 外部の人間をコートやベンチに呼び入れる行為は禁止されている。
従って怪我を負った選手は、 まずその試合を担当するアカデミー所属のトレーナーの判断を仰ぎ、 そこで治療が必要との診断が下れば初めてメディカル・タイムアウトを取ることが出来るのだ。
但しスクール・ドクターは校内に一人、 それもドームから離れたタワーの中の医務室に常駐している為に、 医者の手を借りなければならない程の処置を要する場合は、 即刻、 棄権とみなされる。
要するに、 素人の手に負えない事態であれば大人しく医務室へ直行せよという事だ。
ビッグタイトルの懸かった大会ならともかく、 公式の記録にも残らない校内行事で故障のリスクを背負ってまで試合続行を主張する選手がいるはずもなく、 この規定に疑問を呈する者など一人もいなかった。 今までは。
新任トレーナーが早く返事をしろと言いたげに、 トオルの顔を覗き込んでいる。
もしもあの巨体に強引に担ぎ出されれば、 踏ん張りの利かない体で抵抗し続ける事は難しい。
トオルは前の2ゲームを振り返り、 深い後悔に襲われた――

予兆は確かにあったのだ。
ケビンを相手に各々サービス・キープをしたまま迎えた第7ゲームで、 突然、 今まで鮮明に開かれていた二つの視界に小さな歪(ひず)みが現れた。
ボールを放つ直前に生み出される予測の視界と、 その直後に現実となって映し出される事実確認の視界。
この二つは常にコンマ何秒の規則正しい時差を保ちながらトオルの脳内に映像として送り込まれていたのだが、 ゲームが進むにつれて予測が現実に反するものとなり、 寸部の狂いもなく合致していた二つの視界はその形状を崩していった。
トオルの目に映るのは、 コート正面で 「相手を追い詰める防御」 の前に攻めあぐねているケビンの姿と予想を裏切る形で行き来するボールを捕らえた現実だけで、 毎回修正を必要とする予測の映像は本能がプレーの邪魔になると判断したのか、 足元に吸い込まれるように姿を消した。
初めトオルは、二つの視界を維持する為の集中力がついに途切れたのだと解釈した。 正確には予測を行う為に必要な、 全ての感覚を見る事に集中させる力に限界が訪れたと判断したのである。
ところがラリーを続けていくうちに、 狂いが生じたのは現実の映像だと気が付いた。
自分の立てる予想と実際に戻ってくるボールが微妙に違うのは、 予測が外れた訳でなく、 現実に起きている事の中に想定外の要素が含まれていたからだった。
しかもそれは、 すでに余裕を失くしつつあるケビン側の陣にはない。
残念なことに歪みを生じさせた原因は、 トオル自身が放つボール、 いや、 結果的にはボールだが、 根本的な原因は先ほど予測の映像が吸い込まれるように思えた自分の足元にあったのだ。

右足のふくらはぎが痙攣を起こしかけている。 トオルが正しい結論に辿り着いたのは、 この時だ。
普通なら例え微弱でも自分の体に起きた異変にいち早く気付きそうなものだが、 よほど試合に集中していたと見えて、 痛みはまったく感じられなかった。
リターンの体勢を取りながら、 さり気なく両脚のふくらはぎの辺りに体重をかけて伸ばしてみると、 左足は問題なく動くものの、 右足は一部の筋肉が収縮をし始め、 反応が鈍かった。
この筋肉がつれるような痛みは間違いない。 痙攣を起こしかけている。
寝不足の体で朝食も満足に摂らなかった事が原因か。 あるいは、 この試合が始まる前のリーグ戦で 「相手を追い詰める防御」 を使い過ぎた事が原因か。
いずれにせよ、 自分の体調管理が甘かった。
ここ二ヶ月間、 ずっとチーム 『アキラ』 の万全なサポート体制に頼りっぱなしで、 自己管理の意識が薄れていたのは事実である。
己の体調管理の甘さを反省しながらも、 トオルは第7ゲームを終えた後のコートチェンジの際にも痙攣の処置をせずに、 全身の汗を拭く振りをしてタオルの上からさり気なくマッサージを施すだけに留めておいた。
あの時、 唐沢から渡された消炎鎮痛剤を塗っていれば、 右足の痙攣も最小限に抑えられたかもしれない。
第7ゲームに突入してから、 ようやく 「相手を追い詰める防御」 が効力を発揮し始めた。 ここで弱みを見せては、 せっかくの下準備が台無しになる。 せめてケビンが致命傷となり得る自滅の一打を放つまでは断じて痙攣を悟られてはならないと、 思案した末のギリギリの選択であった。
試合は相変わらず接戦が続き、 第8ゲームも 「4−4」 の引き分けで終了したが、 トオルはその時点で次のゲームが一つの区切りになると踏んでいた。
追い詰められたケビンは王者としての最後の足掻きを見せているものの、 どのショットにもキレがなく、 コースにも迷いが生じているようだ。
次の第9ゲームで、 停滞していた流れは必ず自分に向かうはず。 そこで一気に畳み掛け、 相手のサービスゲームをブレイクしたところで鎮痛剤を使おうと思っていた矢先のことだった。 突如として激痛が右足を襲い、 コートに立っている事さえままならなくなったのは。


モルヒネは何のフォームをに来るのでしょうか?

巨漢のトレーナーが三段腹を窮屈そうに屈めて、 コートにうずくまるトオルの顔を覗き込んでいる。
こんな時、 ジェイクが担当トレーナーであってくれたなら、 窮地を切り抜ける為の知恵を授けてくれるか、 棄権以外の取るべき道を共に考えてくれただろう。
激しい痛みを訴える右足を両手で抱えながら、 トオルは改めて孤立無援の現状を痛感した。
このコートに入って来られる者の中に、 自分の味方は一人もいない。 痙攣を抱えた体であっても、 自力でどうにかするしかないのである。
じっと押し黙るトオルから返事を促そうとしたのか、 目線を同じくしたトレーナーがやけに明るい口調で 「ランキング戦は来月もある。 次、 頑張れよ」 と声をかけてきた。
すでに話はついたと言わんばかりの言動に、 トオルは生徒の立場を忘れて食って掛かった。
「次なんかねえよ。 二度も逃げ出したら……今度は本当にコートに立てなくなる」
自分では精一杯、 語気を強めたつもりだが、 痛みで途切れる声には説得力の欠片もなかったらしく、 トレーナーは露骨な困惑顔を向けた。
「言っている意味が分からんな。 そんな体で試合を続けるほうが、 よほどコートに立てなくなるリスクは高いだろう?」
試合続行の意思は固かった。 残りのゲームを戦い続ける気力もあれば、 体力も自ら幕を引くほど消耗してはいない。
ただ、 痛みに逆らってまで口を動かす余裕がない。 絶え間なく襲いくる、 うねりを伴う激痛が体のあらゆる箇所の自由を奪っていた。
その様子を目ざとく捕らえたトレーナーが、 「それ見たことか」 と言いたげに説得を開始した。
「ここで無茶をやらかして故障でもしたら、 オマエの選手としての将来を棒に振るかもしれないぞ?
ちょうど 『4−4』 の引き分けで終わっていることだし、 誰も分が悪いから逃げたとも思わない。
ランキング戦は毎月の恒例行事だ。 この先チャンスはいくらでもあるだろう?」
不覚にも、 「引き分け」 の一言に気持ちがぐらついた。
テニスに引き分けがない事は百も承知だが、 現時点での棄権敗退は限りなくそれに近い。 このまま試合を続行して失点を重ねた挙句の棄権より、 数字の上で対等の力を示したところで身を引くほうが、 自分を応援してくれた皆にも申し訳が立つというものだ。
実際、 スコア上は対でも、 ケビンを自滅寸前まで追い詰めた。
チーム 『アキラ』 の皆も、 その功績は認めてくれるだろう。

トオルはふと観客席を見渡した。
棄権敗退の選択肢を前にして誰かの許可を求めようとしたのか、 あるいは後ろめたさから来る行為であったかは分からない。
ただ何となく胸の中に疼きを感じ、 今から下そうとしている決断に警鐘のようなものを鳴らしている。
それは二ヶ月前の自分に帰国を思い留まらせた1パーセントの棘とよく似た、 掴みどころのない 「何か」 であった。 自身の中に漠然とした動かせない何かがあって、 その正体を確かめたくて観客席に目を向けたのだ。
隙間なく埋め尽くされた客席の中に知った顔はいなかった。 と言うより、 観客一人ひとりの顔までよく見えなかった。
コートから観客席までは顔を判別出来る程の至近距離ではない上に、 個々の身体的な特徴を捕らえるには隣席とのスペースもなさ過ぎる。 単に金、 茶、 黒、 白といった色とりどりの豆粒大の頭髪が三百六十度敷き詰められている。
「何か」 の正体を求めてのぞいた景色は、 コーヒーショップに置いてある豆の陳列棚と大して変わりがなかった。
それ故、 トオルの視線がコート正面に設けられた一際目立つボックス・シートに注がれたのも自然の成り行きだった。
どんな表情をしているかまでは分からないが、 その他大勢のアメリカ人とは明らかに容姿が異なる為にそれが誰であるかという事と、 また顔の向きから自分を直視している事だけは認識できた。
今朝会場入りしてからずっとプレーに集中していた所為か、 今まで全く気付かなかった。 成田と唐沢が客席の最前列で自分の試合を観戦していようとは。
胸の疼きが忽然と消えた。

「なあに、 焦る事はない。 マジマは二位につけているんだ。 トップはいつでも狙えるさ」
コートから視線を外し無言で客席を眺めるトオルの行動を、 戦意喪失と捉えたのだろう。 トレーナーが安堵を多分に含んだ声色で慰めの言葉をかけてきた。
「俺が前に面倒を見てきた選手の中にも、 ふくらはぎの痙攣を放置したまま試合を続けた奴がいる。
その後、 そいつがどうなったと思う?
痙攣で痛めた箇所から肉離れを起こし、 それが発端で膝、 太腿、 足首とシーズンごとに故障が広がり、 とうとう使い物にならなくなっちまった。
賢いオマエなら、 もう分かるだろう? 損傷が小さいうちに適切な処置をしないと大変なことになる。
これは勇気ある敗退だ。 さあ、 胸を張ってコートから出れば良い」
「アンタさ、 ベテランのトレーナーなんだろ?
アンタが育てた選手の中に、 自分から勝負を捨てたくせに、 胸を張ってコートから出ていった奴がいるのかよ?」
自分より何歳も年上のベテラン・トレーナーを相手に睨みつけるつもりは無かったが、 無意識のうちに決意が顔に出ていたようである。
トオルが質問を投げかけたと同時に、 二メートルもの巨体が後ずさりと同じよろけ方で大きく後退するのが見えた。
「オレは今日、 テニスプレイヤーにとって一番大事なものを取り戻す為にここへ来た。
どんなに無様な結果になろうと、 観客の前で見苦しい醜態を晒そうと、 絶対に逃げ出さないと決めたんだ。
アンタの言う通り、 このまま試合を続ければ将来を棒に振るかもしれないけど、 オレはこんな所で棄権して仮に選手生命が延びたとしても助かったとは思わない」
言葉を重ねるにつれて、 トレーナーのはち切れんばかりの丸顔が萎んでいった。 緩やかな弧を描いていた眉は中央へ押し寄せられ、 安堵の笑みを浮かべていた唇は失意を露に窄められた。
「この会場には、 オレのプレイヤーとしての答えを見ている人がいる。 こんなオレを信じて、 力を貸してくれた人もいる。 その人達を裏切るような真似はしたくない。
頼む。 このまま試合を続けさせてくれ」
トオルの最後の一言は、 萎みかけた風船にトドメの一撃を加えたに等しかった。
険しい表情を浮かべていたトレーナーは、 まるで針で刺された風船のように全身を大きく仰け反らせた後で、 ふうっと深い溜息を吐きながら、 力なくその場に座り込んだ。
さぞかし彼はアカデミーに転職した事を悔やんでいるのだろう。
着任後、 初めて任されたランキング戦は、 地域住民のみならず得体の知れないヤンキーまで押しかけ警備員総出の厳重警戒態勢の下で行われるという物騒なイベントで、 そこに出場する選手はトレーナーの話に耳を貸そうともせず、 あくまで人騒がせな試合を続けさせろと粘っている。
自身が担当する試合で生徒が大怪我を負ったとなれば、 専任トレーナーも何がしかのペナルティがつくはずだ。 たとえ報酬の面での損失がなくとも、 経歴上、 好ましくないことは確かである。
隣で座り込んでいる彼も己の不運を嘆いているのだろうと、 トオルは放心する巨体から声にならない後悔を感じ取っていた。


vitiamin bはあなたを傷つけることができ

「マジマ、 もう一度患部をよく診せてみろ」
ついに痺れを切らした別のトレーナーが、 二人の間に割って入ってきたのかと思った。
それ程までにその声は、 先のトレーナーが発したものとは違う、 腹の底にずしりと響く重みを持っていた。
声ばかりでなく、 彼の表情にも変化があった。
相変わらず窮屈そうに体を屈めているが、 両手を使って触診を行うトレーナーの顔は真剣そのもので、 たった今コートに座り込んでいた人物とはまるで別人だった。
放心していた数秒の間に、 一体、 何があったというのだろう。
トオルの困惑をよそに、 彼は黙々と触診を続けていたかと思えば、 ふいに巨体を近づけ耳元で囁いた。
「トレーナーが診断する時間はメディカル・タイムアウトには入らない。 なるべく引き延ばしてやるから、 後は自分で判断して決めろ」
この唐突な心変わりをどう解釈して良いのか。 唖然とするトオルに向かって、 彼は気まずそうに 「俺は一応、 止めたからな。 これでどうなっても、 オマエの自己責任だからな」 と念を押した。
「あの……ありがとう。 でも、 どうして?」
やっとの事で発した疑問に、 彼は硬い形相を崩して言った。
「今朝、 外で柄の悪いヤンキーがフリーペーパーを配っていただろ?
どうせロクでもない連中のする事だ。 騒ぎを大きくする為にばら撒かれたものだと思って読み流していたが、 いまマジマと話していて、 あそこに書かれていた内容が真実だと確信した。
オマエは昔のジャン・ブレイザーに良く似ている」
「アンタ、 ジャンを知っているのか?」
「ああ、 学生時代の話だが、 奴とは一度だけ対戦したことがある。
あの記事に書いてあったテニスプレイヤーと少年というのは、 ジャン・ブレイザーとオマエの話だろう?
俺はここで起きている騒動に興味は無い。 だがマジマが奴の遺志を継ごうとしているのなら、 話は別だ。
勝敗よりも勝負にこだわる。 スコアよりも勝ち方にこだわる。
ジャン・ブレイザーは、 プレイヤーと言うよりファイターだった」
トレーナーはほんの一時うっとりとした表情を浮かべた後、 照れ隠しと思われる咳払いを一つして、 再び真面目な顔で診断を行った。
先の宣言通り、 彼はただでさえ鈍重に見える動作をさらに遅くさせて触診を行い、 おまけに自分では判断がつかないからと他のトレーナーを呼び寄せ四の五の協議した結果、 合計十分間もの休憩時間を作り出してくれた。
そして去り際に 「メディカル・タイムアウトは一回限りだ。 次、 倒れたら終わりだぞ」 と言い残し、 三段腹をゆさゆさと揺らしながら 「健闘を祈る」 の言葉と共にコートから出ていった。

完全とは言えないまでも、 トレーナーが稼いでくれた十分間で右足の痙攣は鎮まり、 痛みもほとんど消えていた。
トオルはできるだけ右足に負担をかけないように自陣のベンチに戻ると、 タイムアウトとして定められている三分を使って治療を開始した。
テニスバッグから救急セットを取り出し、 患部をマッサージする要領で消炎鎮痛剤を塗りこみ、 ストレッチを行った。
今回唐沢が渡してくれた救急セットの中にはもう一つ、 こむら返りの対策用にホットクリームと呼ばれる筋肉を温める作用のある軟膏が入っていた。
ストレッチで痙攣が完全に治まった事を確認してからホットクリームを重ね付けし、 レイから万が一の為にと渡されたサポーターを巻きつけ、 激しい動きに耐えられるように補強した。
本当はテーピングのほうが補強の面では優れているが、 次の第9ゲームが終わればコートチェンジで休憩が取れる。 但し時間が一分半と治療を行うには短い為に、 再び消炎鎮痛剤を使用しなければならない事態を考え合わせ、 着脱しやすいサポーターを選択したのである。
これら患部の治療に加え、 スポーツドリンクで水分補給を行った。 そして最後にもう一度ストレッチで右足の具合を確認したところで三分間のメディカル・タイムアウトは終了した。

場内の観客達が固唾を呑んで成り行きを見守る中、 トオルはサポーターを巻きつけた右足を引きずる事なくコートに復帰した。
痙攣のアクシデントがなければ、 次は第9ゲームでケビンのサーブから始まるはずだった。
試合を中断した箇所から続ける為に、 トオルが自陣のベースラインに立ってリターンの構えを取ろうとした時だ。 今まで静寂を保っていた会場から、 パラパラとまばらな拍手が起きた。
それはごく少数の、 周囲の目を気にしながらの短い拍手であったが、 明らかに再びコートに姿を見せたトオルへ向けられたものだった。
ストリートコートの仲間など身内の人間が起こしたものではない事は、 すぐに判断できた。 良くも悪くもトオルの知り合いは皆、自己主張が強すぎる。 その彼等がこんな遠慮がちな拍手をする訳がない。
名前も知らない観客の中の誰かが、 試合続行を決意したトオルの闘志を称え送ってくれたのだ。
一瞬で消滅した淡雪のような拍手を、 トオルは胸に刻みつけた。
観客からの拍手が、 こんなにも救いになるとは思いも寄らなかった。
この会場の中に、 仲間以外にも自分を応援してくれている人がいる。 三百六十度、 敵意に囲まれた前回と比べれば、 奇跡のような出来事だ。
リターンの構えを解いて、 客席に向かって片手を挙げる。 これが自分に応援の意を示してくれた、 勇気ある誰かの想いに応える唯一の方法だった。
しかしこの行為は再びの拍手には繋がらず、 観客達はまた自らの意思で秩序ある静寂を保っていた。
トオルは今一度ベースラインに立って、 リターンの構えを取った。

ネットの向こうでサーブの体勢に入ったケビンは、 追い詰められる前の冷静さを取り戻していた。
残念ながら試合を中断してからの十数分間は、 負傷した選手だけでなく、 相手にとっても不利な状況を立て直すには有益な時間だったと見えて、 先程までの苦渋を浮かべていた表情が和らいでいる。
本当は第9ゲームでけりをつけたかったが、 こうなっては仕方がない。 この試合、 かなりの長丁場になるだろう。
果たして痙攣を起こして間もない右足は、 どこまで持ちこたえてくれるだろうか。
気持ちを落ち着け、 五感をコートの中に集中させる。
中断前と同様に全神経を視覚に集めてみるが、 崩壊した二つの視界は望み通りに降りては来なかった。

案の定、 第9ゲームはケビンが自身のサービスをキープする形で手中に収め、 続くトオルのサービスゲームもブレイクされた。
右足の痙攣がなければ一気に畳み掛けるつもりであったが、 再発を恐れるあまり無意識のうちに負傷した箇所をかばいながら戦っていた事も原因の一つだろう。
第10ゲームが終了した時点で、 スコアは 「6−4」 とケビンに2ゲームも差をつけられ、 形勢は一気にトオルの不利な方へと傾いた。
こうなる事は、 ある程度予想がついていた。
トレーナーが作ってくれた治療の為の十数分間は、やはりケビンにとっても立て直しを図るのに有益な時間となっていたようである。
予期せぬ形で休息を手に入れた彼は普段の冷静さを取り戻し、 試合に勝利する為には何を優先すべきかを検討した結果、 一旦自分の得意な攻撃スタイルを封印し、 トオルの脚に負担がかかるようにコースを散らす策に切り替えた。
攻撃と見せかけてトオルが追いつけるギリギリのコースを狙い、 前後左右に揺さぶりをかける。 仮にチャンスボールが上がったとしても安易に決めずに、 出来るだけラリーを長引かせ、 痙攣が再発するか、 弱った筋肉が悲鳴を上げるまで走らせる。
こちらの防御に徹したスタイルを逆手に取ってコートの中を引きずり回し、 トオルが自滅する機会を待っているのである。


フェンタニルパッチが動作するためにどのくらい時間がかかりますか

もう後がない。 次のケビンのサービスゲームをどうにかブレイクしなければ、 間違いなく勝利は向こうの手に渡ってしまう。
だがしかし、 ここで無理をすれば痙攣が再発する恐れもある。
メディカル・タイムアウトは一度しか使えない。 次は、 どんな理由があったとしても強制退場させられる。
まだ少し違和感の残る右足が、 主に無理をするなと訴えていた。
何か他に手立てはないものか。 冷静に相手の弱点を攻め立てるケビンに対し、 起死回生を図れるような上手い策が見つからない。
いっそトオル自身も 「相手を追い詰める防御」 を捨てて別の戦い方を思案してみるが、 この二ヶ月間、 防御に重点を置いて練習を重ねてきた為に、 今さら付け焼刃の攻撃で勝てるとは思えない。
考えあぐねるトオルとは対照的に、 ケビンはすっかり息を吹き返している。
すでに6ゲームを先取している彼は、 残り2ゲームを物にすれば勝利を掴むことが出来るのだ。 余力を振り絞ってでも勝ちを取りにくるに違いない。
トレーナーに無理を言って試合を続けさせてもらったが、 結局は大量失点の挙句の敗退なのか。
トオルの胸の中で、 いま最も向き合いたくない感情が輪郭を整えつつあった。
機会あるごとに嫌な目立ち方をしてチラつく 「限界」 の二文字。 ついさっきトレーナーに覚悟を伝えた際に、 振り切ったはずの恐怖や不安が甦る。
目を背け、 耳を塞ごうとする度に、 これらの感情は膨らみを増していき、 まるで拒絶の行為そのものが弱さの証だと言いたげに、 決意を宿す胸の隙間に入り込んでくる。
気力を保つことが、 背筋を伸ばしてコートに立つことが、 この上なく困難な作業に思えてくる。 まだやれると思いたいのに、 ラケットを振る手は重い。
なるべく触れないようにしていたが、 自身の抱える苦しさに意識が傾いていく。
辛い。 苦しい。 早くこの苦痛に満ちた時間が終わって欲しい。
コートを去る際に皆の理解を得られるような言い訳を考え出した自分がいる。
このままでは前回の試合と同様、 体が動かなくなるのも時間の問題だ。
己の弱さを払拭すべく、 トオルは支えとなるものを身の内深くに探し始めた。

後先考えずに突っ走る自分にも、 力を貸してくれた人達がいる。
傍迷惑な失敗を繰り返す後輩を咎めることなく、 程よいスタンスで寄り添ってくれた先輩が。
それぞれ仕事を抱える身でありながら、 トオルの為に働きかけてくれたストリートコートの仲間が。
師匠との禁を破ってまで護衛に付いてくれた従兄弟や、 遠い日本でトオルの帰りを待ちながら大切な居場所を守ってくれている親友、 コーチ、 そして彼女。
彼等は皆、 たった一つの事を信じて自分と同じ時間を過ごしているはずで、 その想いは時に言葉となって、 時にメールや写真となって、 体中のそこ此処に染み付いている。
自身を支えてくれる皆の想いを手繰り寄せていく中で、 不意に昨夜ラルフがかけてくれた言葉が浮かび上がった。
「今オマエが唯一恐れなければならない事は、 勝ち負けよりも全力を出さずしてコートを去る事だ。
苦しくなったら、 思い出せ。 自分が全力を出し切ったか、 どうか。
俺達と積み重ねてきた練習の成果を全部出したのか」
それから彼はごつごつとした拳を左胸に当てながら、 「意志を強く持て」 とトオルに説いた。
「オマエが後悔しながら張ってきた意地も、 悩みながら貫いてきた正義ってヤツも、 全部元は同じ、 意志から来ている。 これさえしっかり持ってりゃ、 小便チビりながらでも戦える。
そのオマエの左胸にあるヤツを、 絶対、 曲げんじゃねえぞ」

トオルは、 不安に揺らぎかけた胸の中で灯のごとく浮かび上がった言葉に頷いた。
そうだった。 不安や恐怖はあっても良い。
本当に恐れなければならないのは、 自分の意志を曲げた時。 自らの手で捨ててはならないものを捨てた時。
自分は今日、 それを取り戻す為にコートへ戻ってきたのではなかったか。
すぐに迷いが出てしまう脆い自分に託された想いに応える為に。 何より、 自分が認めるプレイヤーであり続ける為に。
まだ、 やれる。 これからだ。
自信はないが確かなもの。 絶対に曲げられないものが左胸にちゃんとある。
限界に屈する寸前で意志の存在を確認したトオルは、 最後までジャンの 「相手を追い詰める防御」 で勝負する事を決意した。
ずるずるとポイントを奪われ敗北するぐらいなら、 棄権敗退のリスクを背負ってでも勝負に出たほうが潔い。
第一、 難敵ケビンを打ち負かす方法はそれしかないのだから。
不思議なことに決意を固めた途端、 ベースラインでサーブの構えを取るケビンの動きがつぶさに見えてきた。
トスを上げる直前に、 手にしたボールを自身の胸に向けてトントンと二回押し当てる。
まるで自分に誓いを立てるような仕草は生前のジャンの癖を模したもので、 本来ならこの後すぐにサーブに入るべきところを、 今のケビンは違う行動を取っていた。
時間にして一秒にも満たないほんの一瞬の出来事ではあるが、 彼はスコアボードの 「6−4」 と表示された箇所に目を向けた。
恐らくは、 もうすぐ訪れようとしている勝利を意識しての事だろう。
2ゲームのリードを確認した後の彼の表情は、 前にも増して自信に満ち溢れていた。
トオルの胸の中で微かな灯に過ぎなかった光が、 トクトクと脈打つ鼓動と共に、 熱を帯びて輝き出した。
ケビンは気付いていないのだ。 勝利の女神は2ゲームの差がついた今尚、 どちらの選手にも確たる微笑みを見せてはいない。


ベースラインで構えるトオルは、 ケビンのサーブを繰り出すフォームから右サイドのコーナーを狙ったボールが来ると読んでいた。
『ジャックストリート・コート』 に出入りしていた頃に、 どうにかしてジャンのサーブを物にしようと瞼に焼き付くまでに観察し続けたフォームである。 それが酷似していればしている程、 コースの判別も容易となる。
また理論的にも、 その可能性は高かった。 リターナーを走らせ脚への負担を増やすつもりなら、 コートの外へ追い出すコーナーを狙う事はあっても、 センターに留め置くコースを選ぶはずがない。
ケビンがラケットを振り出すと同時に、 トオルはリターンの低い構えから右足に重心をかけて走り出し、 コーナー目がけて突っ込んできたボールを捕らえて相手コートへと打ち返した。
二つの視界が徐々に形を成してきた。 予測の映像を追いかけるようにして、 それと全く同じ現象が現実の出来事として目の前に現れる。
トオルがクロスへ打ち返したボールを、 ケビンはストレートで返すだろう。 前後左右と振り回し、 どうあっても自滅へ追い込む作戦だ。
その予測どおり、 ベースライン近くに深いボールが戻ってきた。
振り幅の激しいボールに苦戦しながらも、 トオルは己のフットワークの軽快さを自覚した。
右足への負担が気にならないと言えば嘘になる。 わずかに痛みも感じるが、 今のトオルには痙攣再発の不安より、 喜びのほうが勝っていた。
まだ戦える。 まだコートに立っていられる。 自ら望み挑んだ勝負の場で、 存分に戦い抜くことが出来るのだ。
刻々と鮮明になっていく二つの視界。 これらが以前と同じテンポで合致するに伴い、 自身が生み出すボールにも球威が戻っていく。
痙攣が再発するかもしれないという不安を吹っ切った事により余計な力みがなくなり、 本来持ち得るパワーを発揮すべき所へ注げるようになったのだ。
そしてその事は、 ネットの向こうで攻めあぐねるケビンの様子からも確認できた。
ラリーを重ねるごとに調子を上げていくトオルとは対照的に、 彼の表情はにわかに曇り出し、 コート中を振り回すはずのボールは精鋭さを欠き、 ことごとくラインを割っていた。
もうすぐ息絶えると踏んだ相手が思いのほか粘りを見せている。 しかも自殺行為であるはずの 「相手を追い詰める防御」 を復活させて、 サービスゲームをブレイクしにかかっている。
予期せぬ二つの現実が再びケビンに冷静さを失わせ、 失点へと繋がったに違いない。

テニスの試合では、 絶対に死守しなければならないポイントがいくつか存在する。 特に勝利を目前にした自身のサービスゲームで、 4ポイントのうちの2ポイントを連取された時。 サーバーは攻め続けるか、 守りに徹するかは別として、 3ポイント目を連取される事態だけは何としても避けなければならない。
理論上はいずれのポイントも同じ重さかもしれないが、 精神面ではポイントを奪われるタイミングによって試合の流れを左右する程の大きな痛手となるのである。
すでにトオルに2ポイントを連取された今のケビンは、 例えて言うなら、 敵将の首を取ろうと敵陣深くに攻め込み返り討ちに遭った大将と同じ心境であったに違いない。 トオルの息の根を止めるつもりが思わぬ反撃を食らい、 逆に窮地に追いやられてしまったのだ。
残り2ゲームを物にすれば勝利が掴めるこの好機に、 自身のサービスゲームを落とすような愚かな行為は断じて許されない。 しかも潰れかけている相手から一方的にポイントを奪われ逆転されるなど、 あってはならない事だった。
敵将から二太刀浴びた後、 致命傷となる三太刀目をかわそうとしたケビンが取った策は、 一撃必殺を狙った攻めの一手であった。
ところが彼の攻撃は、 またしても失点へと繋がった。
但し今回はトオルを振り回そうとして打ち損じた訳ではない。 攻め急いだ末の自滅であった。
前半のトオルが敷いた 「相手を追い詰める防御」 の効果が、 ケビンの意識の中でまだ活きていたのである。
今まで通り手堅くゲームを進めていれば、 あるいはサービス・キープも可能だったかもしれないが、 ラリーを重ねるごとに動きが良くなるトオルの完全復活を恐れ、 必要以上に際どいコースを攻めた結果、 渾身の一撃は収まるべきラインから大きく逸れたのだ。
恐らくこの時点で形勢逆転をより明確に感じ取ったのは、 トオルよりもケビンのほうだろう。
焦った彼は再びコースを散らして脚に負担をかける作戦に切り替えたが、 その過程で浅くなった返球を拾い上げたトオルがネット前に詰め寄り、 トドメとなる4ポイント目をボレーで決めた。
ゲームカウント 「5−6」。
ケビンにとってリーチとなるはずの第11ゲームを、 トオルはブレイクする事で首の皮一枚繋げたばかりか、 精神面でも大きな痛手を食らわせた。

試合の流れが、 明らかに変わった。
この事は実際にプレーをしている選手だけでなく、 観客達も同様に感じ取っていた。
第11ゲームが終わった瞬間にまばらだった拍手は膨らみを増し、 奇跡的な逆転劇を起こそうとしているトオルに声援を送る者まで出始めた。
いまだケビンが1ゲームをリードしているにもかかわらず、 会場はすでにこの後の奇跡に大きな期待を寄せている。 一度はリタイアしかけたトオルが残り1ゲームの差を詰めて、 再びケビンに並ぶ様を思い描いているのである。
実際、 後のないトオルにとって次の第12ゲームは譲れないゲームであるが、 それはケビンにとっても同じ事だった。 ここをどうにか死守すれば、 彼の勝利は確実となる。
前のゲームを失ったことで気持ちを切り替えたケビンは、 リスクのある攻撃を避けて、 安全策に打って出た。 前後左右に散らしていたボールを左右のみの深いコースに絞り、 トオルを攻撃しやすいネット前から遠ざけ、 確実に自滅させる作戦で勝利を得ようとしたのである。
ベースラインに貼り付けられる格好となったトオルは、 防戦一方で凌ぐしか手立てがなく、 しばらくは長いラリーが続いていた。
会場のそこかしこから、 ブーイングが聞こえてくる。
恐らくそれは防御に徹するトオルに対してではなく、 負傷者を自滅へと追い込むケビンに対して発せられたものだろう。
不思議なことに、 自分に対する非難の声は敏感に感じ取れるのに、 相手プレイヤーに対するものだと、 あまりに気にならなかった。


シングルスコートの横幅8.23メートルを、 右に左に振り回される。
駆けずり回りながらの返球は重心がぶれる為に、 安定した防御を続けるのは難しい。
だが、 この感覚は体が覚えている。
トオルは体勢を崩されないよう注意しながら、 辛抱強く来るべき機会を待った。
フォアサイドからのボールをクロスへ返球すると、 ケビンからはストレートでバックサイドに返ってくる。 しかも左コーナーを狙った目一杯深めの球である。
予測の視界が教えてくれた通りのボールをトオルは跳ね際で叩くと、 相手コートのど真ん中へ打ち返し、 自身はサービスラインの少し内側へ進み出た。
恐らくケビンは再び振り回そうと、 左右どちらかのサイドを狙うはず。
案の定、 バックサイドから中央へ進み出たトオルの右脇を抜くボールが戻ってきた。
「いいか、 トオル? 一秒にも満たないコンマ何秒の世界だ。
意思を持ったプレーは、 無意識のものよりコンマ何秒だが反応が早くなる」
チーム 『アキラ』 の練習初日にラルフから言われた言葉が頭の中を通り過ぎ、 幾度となく重ねてきた訓練と同じ動きを体が再現していった。
ベースライン深くに打ち込まれたボールをライジングで拾って上がり、 サイドを狙ったボールを今度はアングルボレーで決める。 これは 「相手を追い詰める防御」 の練習後、 ラルフが念の為と言って付け加えてくれたメニューであった。
その時は気晴らしの類かと思ったが、 もしかしたら彼はこの展開を、 「相手を追い詰める防御」 が何らかの形で回避された時の展開を見越して、 素早くネット前を陣取れるライジングを教えてくれていたのかもしれない。
ケビンが右脇を抜こうとして弾いたボールを、 トオルは意識の差で生み出したコンマ何秒を使って追いつくと、 得意のアングルボレーで逆サイドへ沈めた。
コート中央からトオルを振り回そうとベースラインで構えていたケビンは、 ネットすれすれに落ちていくボールに手が出せず、 茫然と見送った。
完全復活を決定付けるトオルのファインプレーに、 会場からは割れんばかりの大きな拍手が沸き起こった。
スポーツマンシップに反する手段で勝利を得ようとするケビンに対し、 観客達が自らの意思で審判を下した結果である。

勝利目前で好機を逃した上に、 味方に付いていたはずの観客からは非難を浴びて、 茫然自失で佇むケビン。 そんな彼から残りのポイントを奪うのに、 大して時間も労力もかからなかった。
ゲームカウント 「6−6」。
スコア上はようやく同じ土俵に上がれただけだというのに、 観客達はすでにトオルが勝利を掴んだような盛り上がり方を見せていた。
会場の中を埋め尽くす拍手の渦と熱のこもった 「マジマ」 の声援が、 二ヶ月前の 「人殺し」 と罵倒された時と同じボリューム、 同じ響き方で、 トオルの耳にも届いていた。
何かが違う。 左胸の疼きが訴える。
いや、 もう 「何か」 ではない。
なぜ左胸が疼くのか。 どういう時に疼くのか。 自分はその答えを知っている。
トオルは一旦手を挙げて審判に 「タイム」 の合図をすると、 興奮みなぎる客席に向かって大きく両腕を振り 「ストップ」 のサインを送って見せた。
「皆、 待ってくれ」
初めは自分達のエールに応えていると勘違いしていた客達も、 その深刻な声のトーンと表情に異変を察したらしく、 数秒後には拍手も声援も元の静寂へと収まった。
何事かと耳を傾ける客席に向かって、 トオルはコートの中から声を張り上げた。
「ここから先、 オレへの声援も拍手も必要ない。 仮にファインプレーがあったとしても、 静かにして欲しい。
そして出来れば勝敗が決するまで、 何もしないで黙って見ていてくれないか」
観客達からの拍手や声援を断る選手など、 前代未聞のことだろう。
瞬く間に会場は不穏な空気に包まれ、 歓喜の余韻も客席の中に沈んでいった。
今朝からの、 秩序あるものとは異なる不気味な静寂が降りてきた。
いまトオルが立つテニスコートの周りを囲んでいるのは、 凍て付くような冷たい視線と疑念を大いに含んだ沈黙だけだった。



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